相馬藩の歴史
現在まで連綿と続く相馬氏は、かつて源頼朝から奥州合戦の功績により現在の相双地域に領地を授かりました。今から700年前の1323年、初代相馬氏(平将門)から数えて17代目(第6代相馬藩主)となる相馬重胤が、その領地に下向。ここから相馬藩の歴史が始まります。
その後、周囲の有力大名との抗争や和睦を繰り返し、巨大な災害にも見舞われながら、地域の平和と安寧を願い続けた結果、全国でも類を見ないほど長い期間にわたり同じ地域を治めることとなりました。
奥州下向 1323年
初代相馬氏から数えて17代目となる相馬重胤が、現在の千葉県から下向。
現在の南相馬市へ居を構えました。以降、鎌倉〜室町〜安土桃山〜江戸と永きにわたって同一地域を治める奥州相馬氏の歴史が始ます。
伊達氏との融和と対立 1500年代
伊達氏は、その領地を接していたことから、奥州相馬氏と数多くの対立や融和を繰り返す切っても切れない東北の大大名でした。奥州相馬氏は、代々この強大な隣人との鍔迫り合いを繰り広げながらも、地域の安定を守り続けたのです。
関ヶ原の合戦〜改易 1600年〜1605年
第16代相馬藩主 相馬義胤は、天下分け目の関ヶ原に際し、参戦しないという中立の立場をとりました。そのため、関ヶ原の合戦後、徳川から不参戦を咎められ、改易を余儀なくされました。しかし、第17代相馬利胤が優れた政治手腕で所領回復の交渉を成功させ、無事所領を回復することができました。
2度の大飢饉 1782年〜
東北地方を含む広範囲に甚大な被害を及ぼした天明の大飢饉(1783年〜)では、中村藩領でも人口が大きく減少。それから程なくして、天保の大飢饉(1832年〜)が各地を襲いましたが、第25代相馬祥胤以降、歴代の藩主たちが先んじて推進していた緊縮財政策が功を奏し、一人の餓死者も出さずに乗り越えることができたと言われています。
明治維新 1868年〜1871年
江戸時代末期の大変革期。中村藩は新政府軍との戦いの末降伏しました。この混乱期の中でも相馬野馬追は「省略野馬追」と称し、規模を大幅に縮小して続けらてきました。明治維新により領地を治める領主ではなくなり、相馬家の家中行事である相馬野馬追は消滅の危機に瀕しますが、翌1872年に太田神社の神事として再開されました。
東日本大震災〜原子力発電所事故による避難 2011年〜
東日本大震災と続く津波、そして原子力発電所事故という複合災害により、旧中村藩領は大きな被害を受けるとともに、国土の三分の一の地域では住民が避難を余儀なくされるなど、700年という歴史の中でも特異な状況に置かれることとなりました。今なお避難続く地域もある中、かつての大飢饉や疫病、戦争などの危機を乗り越えてきた旧中村藩領は必ずやこの困難を克服することができると信じています。